イースト・ハーレムは、96丁目から北、5番街の東からハーレム川までで、スパニッシュ・ハーレム(Spanish Harlem)ともエル・バリオ(El Barrio:スペイン語で地区やネイバーの意味)とも呼ばれています。
1930年頃のスパニッシュ・ハーレムは、ラテン系の人々の住む地区を指していましたが、1950年代には、イースト・ハーレム全体を示すようになったそうです。エル・バリオは、住んでる人たちがそのように呼び始めたそうです。
現在は、NY市でもプエルトリコ、ドミニカ、キューバそしてメキシコ系の人々が暮らす最も大きいヒスパニック・コミュニティの一つです。また、近年、NY市ダウンタウンの家賃の増加により中国系移民数が上昇。特に2000~2010年の間には2倍に増加したそうです。
しかし、ここには当初、貧しいドイツ、アイルランド、スカンジナビアそして東ヨーロッパからのユダヤ人の移民が多く、特にユダヤ人の人口は、1917年頃には9万人だったそうです。
そして、イタリア系移民の人達です。
1.イタリアン・ハーレム(Italian Harlem)
1870年代、イタリア、特に南イタリアやシチリア島からの移民が、イースト・ハーレム106丁目近辺の貧民街に増え始め、次第に、イタリア系地区が広がって行きました。やがて、地区は「イタリアン・ハーレム」と知られるようになり、マンハッタンのイタリア系移民のハブとなりました。さらには、1920年までには、全米で最も大きいイタリア系移民のコミュニティになったそうです。1930年代のピーク時には、11万人のイタリア系アメリカ人が荒廃していたアパートやなどにひしめき合って住んでいたとの事。また、1930年の国税調査では、イタリアン・ハーレムには第一世代と第二世代イタリア系が81%の占めていたそうですが、第2次世界大戦後、不健康なアパートは取り壊され、住民は強制移住を強いられました。
1990年代からイタリアン・コミュニティは縮小し始め、2000年の国税調査時点では、1,130人となったようです。2010年頃までには、地区はイタリアらしい特徴をほとんど失って行き、現在では年配者が多く、114から118丁目のプレザント・アベニューや教会近辺にのみ、かつての面影が残っていると言われています。
2.イタリアン・アメリカン・マフィア(Italian American Mafia)
イースト・ハーレムは、イタリア系アメリカ人の犯罪組織であるマフィアと長い間関りがありました。
マフィアは、1890~1980年代にかけて暗躍してたと言われ、
イタリアからの移民流入が増加し始めた1890年代~1900年代、5大ファミリー(The Five Families) が形成されたとの事。
その5大ファミリーの一つ、ルチアーノ・ファミリー(Luciano Crime Family)のボス、ラッキー・ルチアーノが、映画「ゴッドファーザー」で、マーロン・ブランドが演じたヴィトー・コルレオーネのモデルと言われています。
マフィアの5大ファミリーは、それぞれ代替りでファミリーの名は変わりました。
1920年から施行された禁酒法時代に闇取引で財を築いていき、1940年から1950年、活動はピーク。しかし徐々に1990年代から縮小していったそう。勢力は劣るものの五大ファミリー(恐らく?)は、NY市で今も依然として活動を続けていると言われています。
3. プレザント・アベニュー(Plesant Avenue)
イースト・ハーレムの奥座敷のようにプレザント・アベニューはあります。この通りは、ほんの6ブロックの広さですが、五大マフィアのファミリーの一つで、最も古くそして大きいジェノベーゼ・ファミリー(Genovese crime family )の本部だったそうです。このファミリーは、1986年に詐欺罪で投獄されるまでアンソニー・サレルノ(Anthony Salerno)が率いていたとの事。
加えて、1970年代から1980年代初頭にかけてイタリア系アメリカ人の麻薬密売および殺人依頼ギャング、イーストハーレム・パープル・ギャング(East Harlem Purple Gang)の創設地であり拠点でもあったそうです。ちょっと血生臭く、素人お断り!! のような怖い通りだったのでしょうか。
また、プレザント・アベニューには、Manhattan Center for Science and Mathematicsと言うNY州で優秀な理数系高校があります。114~116丁目の2ブロック間の広さで校舎がNY市のランドマークになっています。以前は、ベンジャミン・フランクリン高校だった建物を利用し、1934年開校したそうです。
元気な若い生徒が歩いている同じ通りを、闇社会に生きる人達も歩いていた同じ時期もあったのを想像すると、不思議な感覚を覚えました。
さらに、プレザント・アベニューから少し入った116丁目にカトリック教会のレイディ・オブ・マウント・カーメル教会(Church of Our Lady of Mount Carmel)があります。
公式にオープンした 1887年当時から近隣に住むイタリア系やその他の人々の心の支えで拠り所なのかも知れません。
さらに、この通りでは、100年以上前に始まったと言われるイタリアの伝統のジリオ(ギグリオかも)の踊りが 今も催されます。
イーストハーレムのジリオ協会(Giglio Society of East Harlem)主催で、毎年8月の第2日曜日です。
かつては違ったエネルギーが渦巻いていたのかもしれませんが、イースト・ハーレムの他の通りとそう変わりはない普通の通りに見えました。
交通量は、ショッピング・センターがある辺り以外は少ない感じでしたので、ショッピング・センターがオープンする以前はもっとひっそりしていたのではないかと思います。
4.老舗イタリアン・レストラン
イースト・ハーレムには、イタリアン・ハーレムの面影を残すようなレストランがあります。
一軒は、ラオ家(Rao Family)が、1896年に創業したイタリアン・レストラン、ラオス(Rao’s)。この114丁目とプレザント・アベニューの角、ジェファーソン公園すぐ横にあり、熟したトマトのような真っ赤な外装が目を引きます。常連や著名人もよく訪れる人気店で、予約が取れないそうです。
2回目の散策時は閉店しており、一つ一つの窓にシャッターが下ろされ、それぞれにしっかりと鍵がかかっていたのに、少し驚きました。
ここのパスタ・ソースは米国スーパーでよく見かけるので、お馴染みかと。個人的に、Rao’sのアラビアータ・ソースが好きで、とても美味しいと思います。スープ、乾麺、オリーブオイルそして冷凍食品も販売しており、ビジネスは順調のようです。
百年以上前から営業しており、プレザント・アベニューの歴史をずっと見てきたレストランかもしれません。
もう一軒は、ピザ屋(Pizzaria)のPatsy’sです。
一番街、117と118丁目の間にあり、こちらは緑色が特徴です。
バジルの色でしょうか。
1933年にパスクアーレ・“パッツィー”・ランセリ (Pasquale “Patsy” Lanceri)が開業し、ニューヨークで最も古いピザ屋の1つであると言われています。
NY市とその近郊に10店舗ほどあるようですが、ここが元祖です。
5.食べ物の砂漠(Food desert)
イースト・ハーレムに1930年頃、パーク・アベニューを走る線路(今のメトロノース)の高架下111~116丁目にマーケット:La Marqueta(The Market)があったそうです。現在は、その名が付いたお店か、小さいマーケットのようなのがありました。
しかし、イースト・ハーレムでは、人口密度が高い割にスーパーマーケットがあまりないため、新鮮な野菜や果物を摂ることが難しく、地区は、「食べ物の砂漠(Food desert)」とも表現されています。近所の小さい食料品店で、スーパーより割高なのに質の悪い品を手に入れる事もあるそうです。
2008年のニューヨーク市都市計画局のリポートによると、市内で最も食事関連の病気が多い地域であり、肥満や糖尿病の割合が高いそうです。
散策時、小さなスーパーやグロッサリーがありましたが、買い物をしたくなるような雰囲気ではありませんでした。
2009年11月、117丁目に開業したショッピング・センターのイースト・リバー・プラザには、大手スーパーやコストコが入っており、新鮮な食料品など購入できる場所と思われるので、状況が改善する事を願います。
ただ、個人で持参した大きなカートを押している人や家族を見かけましたが、生活必需品が多く、食料品は少なかった印象がありました。
6.まとめ
イースト・ハーレムには、低所得者用のアパートであるプロジェクトの建物以外は、高いビルもなくどちらかと言えば殺風景な印象もある通りが多かったです。また、昼間、通りですれ違う人達は、中南米系かアフリカ系の人達が圧倒的に多い印象でした。
ただ、地域に馴染みがないのなら、日が暮れてからは行かない方が賢明かと強く思います。
行き方
NY市地下鉄 6番線の103丁目、110丁目か116丁目駅が便利
謝 意
I’m so grateful to Hank O. for showing me around various places and sharing his knowledge.