1.イースト・ハーレムの治安
イースト・ハーレムは、1960~1970年代にかけて、犯罪率や失業率が高く、十代の妊娠、エイズ、麻薬、ホームレスなど深刻な社会的問題に苦しみ、また喘息率は、米国内平均の5倍も高かったとの事。また、1980~1990年代には、NY市でも最も不名誉な地区の一つとなり、状況を示す数字「40」があったそうです。住民の40%は貧困ライン以下で暮らし、40%の家庭は収入がなく、40%の家族がプロジェクトと呼ばれる低所得者用公営住宅:プロジェクト(The projects/Housing projects )に住んでいると。
通りの様子もパーク・アベニュー、レキシントン街は良いですが、プレザント・アベニュー近辺を除き3番街2番街と東に行くと若干廃れた印象とプロジェクトが増えます。
現在、都市開発が進められていますが、貧困地区と言われるブルックリンのブラウンズビルに次いで、米国で2番目にプロジェクトが集中している地区でもあります。
2021年、77あるニューヨーク市警察の分署の中で暴行と強盗の発生率が2番目、そして強姦の発生率が16番目に高く、殺人の発生率が最も高かったそうですので、まだまだ安全とはえない地区かもしれません。
一方で、少し古いですが、NYタイムスの2016年2月の記事は、「ニューヨークの次のホットな4つの地区」の一つとしてイースト・ハーレムを挙げています。不動産では、金額的に良い条件/契約が出来る地区とも。ただ、高すぎるマンハッタンの他地区と比べての話とも言われているようですので、治安を含め見極めが必要かもしれません。
イースト・ハーレムで最も古いエリア、111から120丁目パークアベニューからプレザント・アベニューまでのエリアは、2019年に国家歴史登録財となっています。
2.プエルトリコ系の人々
イースト・ハーレムでイタリア系移民が急増した頃、1898年の米西戦争からの政治亡命を求めてのプエルトリコからの移民は少数でした。しかし、この戦争後、経済的動機をもった中流のプエルトリコ移民が増加したそうです。
さらに、1940~50年代には、プエルトリコ人の移住が急増し、それに伴いヒスパニック系商品を扱う小さなコンビニのようなボデーガ(Bodega)や民間薬や宗教に関わる商品を販売しているボタニカ(Botánica)などの店舗も増えていきました。
21世紀初めまでには、イースト・ハーレムの人口の3分の一がプエルトリコ出身で、主にワーキング・クラスだったと。
また、区は、「NY市内の島」や「プエルトリコ集落」と言われていたそうです。
3.ヤング・ローズ(Young Lords)
ヤング・ローズ(the young lords)は、ヒスパニック民族主義人権団体で、Young Lords Organization (YLO)やYoung Lords Party (YLP)としても知られています。
母体は、1960年のシカゴのプエルトリコ系ギャング。それが、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・解放闘争を展開していた急進的な政治組織、ブラックパンサー党( Black Panther Party, BPP)をモデルにし、1968年に全国的な政治および公民権運動組織に再編成されました。シカゴやニューヨークを含む全米で3つある部門で、NYは90%がプエルトリコ系であったそうです。
目的は、プエルトリコやラテン系の人々が教育などにより自己の能力を最大限に発揮し、自己決定が行えるようになる事。
NYのヤング・ローズの最初の活動は、1969年夏、不十分な衛生サービスの改善のため、ゴミを積み上げ110丁目をブロックした事だったそうです。
その他として、不平等や貧困、結核テスト、子供達への無料朝食や無料クリニックの提供、女性の性と生殖に関する権利などだそうです。
メンバーはベレー帽をかぶっていたそうです。
さらに、ヤング・ローズは、地域リーダー、専門家や芸術家たちにインスピレーションを与え、1970年代のニューヨリカン運動(Nuyorican Movement)と言われる、特に詩や音楽を含むプエルトリコ文化ルネッサンスへと繋がります。
ニューヨリカン(Nuyorican )とは、米国、特にNYに住むプエルトリコの人達を示します。
やがて1976年に、組織は解体。
散策中、学校が夏休み期の無料ランチ提供の垂れ幕を見た時に、直接関係があるかないかわかりませんが、活動の成果を見たような気がしました。
4.グラフィテイの殿堂(Graffiti Hall of Fame)
グラフィッティの殿堂は、パーク・アベニューと106丁目の角、なんと学校の外壁の外と中にあります。
30年以上前に始まり、国際的に著名なストリート・アーティストが作品を描く事もあるようです。
セントラル・パークや五番街沿いにあるNY市立博物館やエル・バリオ博物館(El Museo del Barrio)からほんの2ブロック西側ですので、これら博物館を訪れる事がありましたら、足を少し伸ばしてみられてはいかがでしょうか。
5.壁画(Murals)
壁画とグラフィテイの違いはいったい何だろうとは思いますが、先のグラフィテイの殿堂以外にもイースト・ハーレムにはたくさんの壁画があります。音楽関連の陽気で明るい系、政治的系、そして個人の肖像や名のついた通りが多く、自分たちのルーツ、アイデンティティそして先人の活動を誇りに思い、忘れぬよう地区全体に刻んでいるような印象を強く受けました。
6.マニー・ベガ(Manny Vega)
プエルトリコ系ニューヨーカーのマニー・ベガは、1956年にブロンクスで生まれエル・ブリオで育ちました。
マニーのモザイク・アートは、プエルトリコやラテン系コミュニティの人達、特に女性を描いたもので、イースト・ハーレムの通りやお店の外壁、地下鉄6番線110丁目駅駅構内、カルチャーセンター等で見る事が出来ます。これら生き生きとした素晴らしいモザイクアートは、古代地中海のモザイク作りと精細でありながら印象的な線で描く作風は、ビザンティン・ヒップホップ(Byzantine Hip-Hop)と呼ばれています。
最初の写真以外は全て、一般の通りにあります。
7.ティト・プエンテ(Tito Puente)
音楽関係では、サルサやチャチャチャ、またラテン・フリースタイル(ラテンのヒップホップ)などの音楽が親しまれ、多くの音楽家が活躍していました。
その一人に、スパニッシュ・ハーレム育ちで世界的に活躍した音楽家、ティト・プエンテ(Tito Puente)は、一度は耳にされた事ある有名な「Oye Como Va」 http://Tito Puente – Oye Como Va (Official Audio) (youtube.com) を作曲しています。この曲は、カルロス・サンタナ、フリオ・イグレスアス、セリア・クルス等にカバーされています。彼の名のついた通りもあります。
8.ダフィーズ・ヒル(Duffy’s Hill)
レキシントン街103丁目にあるダッフィズ・ヒル(Duffy’s Hill)と言われるマンハッタンで最も傾斜のある場所があります。この傾斜ゆえ、イースト・ハーレムまでケーブル・カーの延長が出来なかったそうです。サンフランシスコの坂にケーブルカー走っているのに、とは思いますが、設置時期や技術が違うのでしょうか。
かつてマンハッタンでは、地下鉄の前は高架鉄道Elevated railways)が走り、その発展と共に人々の生活や暮らす場所が変わりました。
高架鉄道とケーブルカーがいつ頃まで走っていたか調べていませんが、イーストハーレムでの公共交通機関発展の遅れが、地区の発展に影響あったのかもと個人的に思います。
9.まとめ
一人ではとても不安なので、ウォーキンググループと共に歩いたイーストハーレム。
昼間に散策する限りでは、危険な雰囲気はなく、むしろ人懐っこい感じのヒスパニック系中高年男性が昔話をしてくれたり、そここにラテン系音楽が流れていました。
差別や貧困での苦しい時代、異なる民族背景で争いなどを経ながらも、祖国文化を誇りに思い力強く人々が暮らしている印象を受けました。
以前より環境は改善されたようですが、それでもまだ治安に問題がないとは言えないと思います。日没後の様子はわかりませんし、地区をご存じでなければ、明るいうちに訪れる事を強くお薦めします。
行き方
NY市地下鉄 6番線の103丁目、110丁目か116丁目駅が便利
謝 意
I’m so grateful to Leigh H. and Hank O. for showing me around various places and sharing their knowledge.