見タイ知りタイ!行った気になる歴史と散策 NY市ヘル・ゲート – Hell Gate 

ニューヨーク市観光

今回は、NY市内北部にある、細い海峡と橋と島についてです。目的がなければわざわざ行かないであろう場所なので、馴染みがない方が多いかもしれません。
びっくりする名前なので、どんな所か興味湧きませんか。

1.ヘル・ゲート(Hell Gate)

ランドールズ島が分かれているので古い地図かと
www.nan.usace.army.mil

ヘル・ゲートは、マンハッタン北東部とアストリアの間、ハーレム川とイースト川の合流地点に近く、潮流のある細い海峡です。
資料によっては、現在のランドールズ島とクイーンズ区の間の細長い海峡をさす場合もあるようでが、「ヘル・ゲート周辺の地図」内の赤丸辺りと思われます。

このびっくり位物騒な名前の語源は、明るい水路(bright gate)の意味のオランダ語「Hellegat」。オランダ人入植者たちが命名したそうです。しかし、のちに航海士にとっての悪夢のような場所となったようです。

www.nan.usace.army.mil

ここは、19世紀までは非常に潮流が速く、また岩礁が多かったため、数多くの船が座礁、沈没し、船舶の墓場とまで言われてた悪名高い危険な水域だったそう。やはり英語名が示す通りやん!!! かと。
安全な船舶航海のため1832 年から岩礁除去が始まります。1885年のフラッド・ロック(Flood Rock)の爆破は当時世界最大級。約80キロ離れたNJ州プリンストンでも感じられたそうです。
約半世紀かけての壮大なプロジェクトでした。

ヘル・ゲート周辺の地図
アストリア区から望むRFK橋

2.ヘル・ゲート橋(Hell Gate Bridge)

ランドールズ島から見たヘル・ゲート橋

ヘル・ゲート橋は、1912年から4年かけて架けられ、1917年に開通した貨物列車やアムトラックの列車が通行する鉄道橋。この曲線がとても美しいデザインは、オーストラリアのシドニー・ハーバー橋、イギリスのタイン橋(Tyne Bridge)、そしてNJ州とスタテン島を結ぶベイヨン橋(Bayonne Bridge)に影響を与えているほどです。シドニー・ハーバー橋はヘル・ゲート橋の1.5倍の大きさだそうです。
個人的には、なんとなくピンクがかって見えなくもないので、ピンク橋と密かに呼んでいます。

RFK橋から望むイースト・リバーに架かるヘル・ゲート橋

3.ジェネラル・スローカム号の惨事(General Slocum Disaster)

General Slocum Photo from Wiki

1904年6月15日の朝でした。イースト・リバーを北上していた蒸気船ジェネラル・スローカム(General Slocum )号で、1,021人が死亡する惨事が起こりました。それは、当時の米国史上最悪の海難事故の一つで、2001年の9.11以前で、死者数が多い災害でした。ドイツ系移民の教会が主催するピクニックを楽しみにしていた、主に女性と子供達の乗客1,358名と乗組員が乗船していた船が、出航から間もなく火災が発生。燃えやすい藁や可燃物などを保管していた前方貨物室からの出火、原因はタバコの火か機関室かボイラー室から、と言われていますが複数説があるようです。

当時、火災が起こっても、消火器が機能しない、ホースや救命胴衣は劣化で使用不能、救命ボートはロープで固定されていた、船員の訓練不足等の不備などに加えて、多くの人が泳げなかったため、被害が大きくなったそうです。また、船長は、船が燃えているにも拘らず、すぐに岸に寄せず進め、結局、北にあるノース・ブラザー島(North Brother Island)に打ち上げられました。
ドイツ系アメリカ人コミュニティに深い影響を与えたこの惨事をきっかけに、救命器具・避難訓練などの法整備が進み、船舶の安全規制が強化される契機となったそうです。

アストリア公園にある惨事についてのサ、奥はRFK橋

これだけの惨事でしたが、あまり知られていない理由はさまざまあるようです。一つに、犠牲者の多くが主には低中所得層ドイツ系移民で、彼らの声が社会に届きにくかった事と10年後に始まった第一次世界大戦によりドイツ系アメリカ人への風当たりが急激に強くなった事。また、もう一つに、8年後に起こった1912年のタイタニック号沈没が、悲劇の記憶の上書をし、また豪華客船に上流階級の乗客も多かった事で国際的に話題となったからとも言われています。
船の名は、南北戦争時代の Slocum将軍にちなんでいるとの事。

4.ランドールズ島(Randalls Island)

ランドールズ島は、ハーレム川、イースト川、ヘル・ゲートとブロンクス・キルに囲まれたマンハッタン区の島です。かつては、リトル・ヘル・ゲート水路によって隔てられたランドールズ島とワーズ島(Wards Islands)の二つの島でしたが、1960年代初頭に水路は埋め立てられ、一つの島となり約432 エーカーの広さとなりました。
ヨーロッパからの入植者たちが 1630年代から 1770年代頃住んでいたようですが、それ以前でもネイティブ・アメリカ人は住んでいなかったとの事。現在の島の名前は、19世紀初期のオーナー名。同世紀中期に、市が二つの島を引き継ぎ、病院、精神病院や墓地を作りました。1930年代頃から、当初の建物はほとんど壊され、代わって、トライボロー橋、公園や排水処理場が建設されました。

ランドールズ島を北から南に向かって望む
右側がマンハッタン島  Photo:Wiki

現在は、精神病院、依存症治療施設、ホームレス・シェルター、NY市消防士学校や トレーニング・センター、下水処理場などの公共施設、また、多くの野球場やサッカー場、陸上競技場、ゴルフ練習場、ピクニック場、プレイグラウンド、菜園場などさまざまなレクリエーション施設があります。マッケンローのテニス・アカデミーもあるようです。
個人的な話ですが、子供が小さい頃、サッカーの試合を観に来ていた事が懐かしいです。

ランドールズ島から見たワーズ・アイランド橋

島へのアクセスですが、車、バス、または徒歩か自転車です。
車やバスですと、ロバート・F・ケネディ橋:RFK橋(Robert F. Kennedy Bridge)の利用です。この橋は、島と接続する3つの区、マンハッタン、ブロンクス、クイーンズをつなぐ橋として1936年にオープンした橋。旧名はトライボロ―橋(Triborough Bridge)でしたが、2008年11月に公式改名されました。
徒歩や自転車だと、マンハッタンからは、102~105丁目辺りにある自転車および歩行者用のハーレム川にかかるワーズ・アイランド橋で行けます。これは、垂直リフト橋で、大きい船が通る時二つの主塔の間は上下する
そうです。結構、素っ気ない橋でした。

細いワーズ・アイランド橋
Photo : B. T. Mills
Photo : B. T. Mills

5.まとめ

アストリアから見るイースト川  Photo : John K.

マンハッタン島からランドールズ島の南を横切ってアストリア区に行くウォーキングに参加した日は晴天。川も穏やかで美しい景色が楽しめました。ただ、同じ場所で、痛ましい船舶の事故が多発した場所だった事を知り、ただただびっくり。特に、ジェネラル・スローカム号の惨事は、本当に衝撃でした。心待ちにしていたであろう日に亡くなった多くの子供達や女性達。タイタニック号沈没の陰に隠れ埋もれてしまった災害の事を知ってもらいたいと思いました。もちろん、ヘル・ゲートの事もです

Acknowledgments
I’m so grateful to David L. for showing me around various places, and to James U. for sharing his valuable knowledge.
Also, thanks for B. T. Mills and John K. for allowing me to use their photos

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